歯列矯正治療において、患者さんから最も多く寄せられる質問の一つが「治療期間はどれくらいですか?もっと早く終わりませんか?」というものです。歯科医師の立場からお答えすると、歯の移動スピードには、生物学的な限界が存在します。歯は、歯槽骨という骨の中に植わっています。矯正装置によって歯に適切な力を加えると、歯が動く方向の骨は吸収され、反対側の骨は新しく作られるという「リモデリング」という現象が起こり、歯が徐々に移動します。この骨の代謝スピードは、急激には早められません。もし無理に強い力をかけて歯を速く動かそうとすると、歯の根が溶けて短くなってしまう「歯根吸収」や、歯を支える骨や歯茎が痩せてしまう「歯肉退縮」といった、取り返しのつかない副作用を引き起こすリスクが高まります。これらの副作用は、歯の寿命を縮めてしまう可能性もあるため、絶対に避けなければなりません。そのため、私たちは、歯や歯周組織にダメージを与えることなく、安全かつ効率的に歯を移動させるために、綿密な検査と診断に基づき、個々の患者さんに最適な力の大きさと方向をコントロールしています。例えば、1ヶ月に歯が移動する距離は、一般的に0.5mmから1mm程度とされています。これを大きく超えるスピードで歯を動かすことは、通常は推奨されません。近年、矯正治療の期間短縮を目指した様々な技術や装置(例えば、アンカースクリューを用いた確実な固定源の確保、摩擦の少ないブラケットの使用など)が開発され、従来よりも効率的に治療を進めることが可能になってきています。しかし、これらも生物学的な限界を超えて歯を動かすものではありません。私たちの使命は、単に早く治療を終えることではなく、長期的に安定し、機能的かつ審美的に優れた歯並びと噛み合わせを、安全に達成することです。焦るお気持ちは十分に理解できますが、健康な歯を維持するためにも、適切なスピードで着実に治療を進めることの重要性をご理解いただければ幸いです。