A子さん(仮名・30歳)が歯列矯正の門を叩いたのは、長年の夢だった客室乗務員の試験に合格し、自分へのご褒美と、さらなる自信をつけるためだった。幼い頃から少し出っ張った前歯がコンプレックスで、人前で思いっきり笑うことにどこか抵抗があったという。カウンセリングでは、治療期間や費用、痛みの程度など、入念に説明を受け、輝かしい未来を夢見て治療を開始した。最初の数ヶ月は、A子さんにとって試練の連続だった。ブラケットとワイヤーが口内炎を誘発し、滑らかな発音が求められる機内アナウンスでは、舌が装置に当たって苦労した。食事も細かく刻まなければならず、同僚との会食も心から楽しめない日々。それでも、「これも夢のため」と歯を食いしばり、毎月の調整にも真面目に通院していた。しかし、治療開始から半年が過ぎた頃、A子さんの心に変化が生じ始める。期待していたほど歯が劇的に動いている実感がなく、むしろ装置のせいで口元が不自然に見えることに悩み始めたのだ。友人からは「なんだか話し方が変だよ」と指摘され、気にしないように努めたが、その言葉はA子さんの心に深く突き刺さった。さらに追い打ちをかけたのは、上司からの何気ない一言だった。「A子さん、最近笑顔が硬いんじゃないか?もっとお客様に安心感を与える笑顔を心がけてくれ」。その言葉は、A子さんにとって矯正治療そのものを否定されたように感じられた。矯正をすればもっと素敵な笑顔になれるはずだったのに、現実はその逆。自信をつけるどころか、自信を失いつつある自分に気づき、愕然とした。担当の歯科医師に相談することも考えたが、「治療が進めば綺麗になりますから」という決まり文句が返ってくるだけのような気がして、なかなか言い出せずにいた。そんな葛藤の日々が数ヶ月続いたある日、A子さんはついに決断する。フライト中、ふと窓の外を眺めながら、「私は何のためにこんなに苦しんでいるのだろう。今の私にとって、本当に大切なものは何だろう」と考えた。そして、これ以上自分を追い詰めるのはやめよう、と。後日、A子さんは歯科医師に治療の中断を申し出た。医師は驚き、中断のリスクや今後の影響について丁寧に説明したが、A子さんの決意は変わらなかった。「今の私には、この治療を続ける精神的な余裕がありません。仕事に支障が出ていることも事実です」。